せやかて.COM

せやかて、ブログ、書いてみたかってんもん

ダラケタ高校時代の3年間・・・・

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ムツゴロウ王国に行くはずだったが・・・・

片思いの娘がいた。

もっと一緒に居たかったから、高校に行こうと心変わりしたのが実情だった。

中三の夏休みを過ぎると、クラスでは入試のことが、しばしば話題に上がってくる。

それで、その娘が行こうと希望している公立高校の情報をそれとなく聞き、そしてゲットした。

数日後、進路面談の時、僕もその高校を希望した。

担任の表情は厳しかった。

「あなたの成績では公立は無理!私立専願でも難しい!」というではないか! 何!!

「行けそうな高校はこれだけ??!!」

そのラインアップは酷かった。アホで有名かつ悪で有名所の2~3校しかなかった。

焦った・・・・・そんなにアホなのか?・・・・そんなに僕はアホなのか?・・・・・

このままじゃ・・・・・かっこ悪い・・・・公立に行かなくては・・・・

アホな私立に行くぐらいだったら、行かないほうがいい・・・・

その時は、道は他にもある・・・・ムツゴロウ王国がある・・・・

失礼千万なヤツだ!こいつは!今思う・・・・

猛烈に勉強した高校受験の結果

しかし、そのことがあって、それから、猛勉強した。と言っても、たかが学校から帰ってきて一日4,5時間、勉強する期間も高校受験まで長くないので堪え性の無い僕でも出来た。

テストのスコアーも上がり、成績もだんだん上がっていった。

まずは私立の入試に挑戦!!

專願でも難しい、受からないと言われた高校を無理やり併願で受けた。

何とか合格!! 

次は公立普通科の中のランクは下位ではあったが、その高校に受験した。

受験当日、あの娘を探したが、見つからない・・・受験しないのか!!!?

どこにも・・・?

あの娘と同じ高校に行こうと頑張ったのに・・・・・いない・・・・・

公立も受かった・・・・・

馬鹿な僕は、やれば俺様は出来ると過信する。「どんなもんじゃい!!」

しかし、それは的外れな思いであった。

その高校の受験した男子は定員割れだった・・・・

つまり、落ちたやつは一人もいなかったのだ! 女子でも数人だけだったらしい。

男子が受験すれば100パーセント入学おめでとうございます!だった。

とんだお笑い種である。それもそのはず、その高校は陸の孤島にあるようなところ、

町から通う人間にとって非常に通いづらいロケーションにある。

近所の人は別だが人気が無いのも当然だ!

そして・・・やはり、・・・・・あの娘は受けていなかった・・・・

專願で受けた私立に入学してやがった・・・・

旨いこといかん!!!・・・・せやかて・・・・・ほんませっしょうやで・・・

十代の自分の自己分析と反省

目標を到達したと共にやる気も失った。

新一年生になったクラスに好みのタイプもいない

ダラダラと過ごす三年間の幕が開くのであった・・・・・

学校にもロクすっぽ行かず、朝、学校に行くと見せかけ、喫茶店に行ってタバコを吸い、長時間居座る、勉強も嫌、先輩後輩の関係も嫌だからクラブもやりたくない。

嫌なことは一切しなかったのだ。

すべてにおいて言い訳をする。頑張ることがカッコ悪いと思った。

堪え性の無い人間は頑張ることができない。

頑張っても長いスタンスの目標には到達できないと思っていたからだ。

「本当はできるけど、頑張らないんだからできないのは当たり前」なんて思っていた。

一番は自分の能力を無さを見透かされることが死ぬほど怖かった・・・・

頑張らないこと、それは自分を能力を他人に悟られない防衛線を張ると言う事だった。

そのことは自分自身で本当は把握していた。 

いい訳が多い無能な人間によくある常套手段だ。

そういう人間は一生懸命さを否定する。

僕は親父譲りの器用貧乏で何でもそつなくできた。

入口は簡単だったから努力をしない、努力しないから壁にぶち当たる。 

ぶち当たれば克服せずに逃げる・・・挫折する・・・言い訳する・・・・

その繰り返し・・・・

自分で見つけ出す楽な逃げ道を・・・ 

馬鹿な性格の僕はその事に気づかず、25~26歳まで「必死はダサいぜ!!」

そんな考えを豪語していた。

素直に自分の無能さに真摯に向き合い、そして努力することの大事さをもっと早く気づいていたら・・・それが出来ていたら人に対して優しくできたり、気遣い出来たりしただろうな・・・と思う。

もっと全うな人に敬われる人間になれたかもしれない・・・・

できるなら時間を戻してやり直したい・・・・

ひたすらモテたい思いで・・・・・

努力せずにそれなりにできた音楽だけは止めずに長続きした。

これが俗にいう才能があるということだ。

しかし、有り余るほどではない・・・・ハンパな才能だ!

ある意味、それは踏ん切りがつかない不幸な才能と言っても過言ではない。

 

それはさておき、ひたすら女にモテたかった僕は、教祖的存在であったポール マッカートニーを愛し、憧れ、そして尊敬した。

高1の春休みに、梅田にドでかい湾曲したスクリーンに3台の撮影機で同時に撮影したフィルムを三台の映写機により映し出す映画館 “シネラマ劇場“ があったビルの2階の喫茶店でバイトして、アリア pro Ⅱ リッケンバッカー 4001モデルを買った。

僕は右利きであったか、あの時はあえて教祖様と同じ左利き用を買うか迷った。

そんなバカが考えを持った僕だけじゃない・・・・・

そんなフリークたちはこの世に沢山いるはずだ!!

今となっては右にしておいて本当によかったと思う。

散髪する時もポールの写真を持って行った。

ウィングスの時の彼のように前髪は少し短めで髪は長めで

レザーカットにパーマをかけたりした・・・・

この髪型はパイナップルカットと同じく70年代に流行ったヘヤースタイルで

デビッドボウイは畑違いだが、ブルースリーなんかもしていた。

ポールへの憧れは持ちつつも・・・・

ビートルズ、ウイングスは基本とし、色んな流行の音楽にも影響されていった。

ブリテッシュ系は、ディープパープル、レッドツエッペリン、クリーム、ストーンズ、クイーン、etc 

アメリカ系は、イーグルス、キッス、ボストン、TOTO、サイモンとガーファンクル、カーペンターズ、ビリージョエル、etc

日系は、チューリップ、チャー、サザン 原田真二 キャロル、

自分のやりたい音楽ではなかったが、僕は八神純子のビッグファンであった。

初めて、あの透明感のある素晴らしい声を聞いたとき恋に落ちた・・・・

カレンカーペンター以来のことだった。

嫌いな音楽はパンクと貧乏くさいフォークソングと演歌、歌謡曲含め歌が下手なヤツはダメだった。

コンサートでアピール

ヤア!ヤア!ヤア!を見て以来、音楽で飯を食いたいと思っていたが、

頭はデカイが容量の少ない脳味噌で考えても「どうすればいいか?」

答えは見つからなかった。

だだ、ヤマハのポップコンと言うコンテストに出ればなれるかも・・・?

目指そうポップコン!!自分の脳で考えなくても良い、テレビから視覚的に入ってきた情報で単純明快だ。

まずはコピーを沢山して将来の曲作りに繁栄させようなんて思っていた。

それは誰でも考え付くようなことなのだが・・・・・・

自分しか思いつかない秘策と考えていた・・・・

そして始めるきっかけとなった目的はすでに大儀となっていた。

それを遂行するためにも人前で発表しなければならないと思った。 

女の子の黄色い声援を浴び、そこで可愛い子を見つけて彼女にしてやろう!

その頃の座右の命は “ねんごろになる” だった。

身の程もわきまえない考えだった。

情報を今のように簡単に取れる時代じゃなかった。イベントなどの情報に乏しかった。

いくつかのバンドを集い貸しホールで自主コンサートを開くことにした。

よく借りたのは今の梅田のhepファイブ、当時は阪急ファイブの5階のオレンジホールでライブをした。

何度もライブをしたにも関わらず、何か違う・・・演奏も良いし、僕のこの歌も良い!

何か違う・・・・予想に反して黄色い声援は無い・・・・・彼女も・・・・

何か違う・・・・と思った。

最も考慮しなければならないことは“若い娘はルックス重視ってこと!”なのに・・・・

馬鹿な僕はその先、何年もそのことに気づかなかった・・・・・

あの時の馬鹿に言います!!

ザッツ ワイ ユー キャント ゲット ア ガールフレンド!!!ばーか!!

・・・・・・・・・・

せやかて、音楽したらモテると思てんもん・・・・・