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長期旅行 南インド編 

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ひたすら南下する

話は脱線したが・・・・時間を潰すひとつの方法は映画だ!列車に乗り込む前に映画で時間を潰した。列車に乗ってコーチンに付いたのはまだ夜明け前だったと記憶している。暗いうちからゲストハウスを探して見つけたのは良かったのだが,そこは決して清潔な外人が泊まるようなところではなくインド人しか泊まらないようなところであった。インドの生活に少し慣れた僕でも一瞬戸惑ってしまう場所であった。

コーチンはジャングルにある運河をクルーズすのが有名だったが、長くインドにいると何もかも面倒になってしまって結局乗らずじまいであった。タカカリダンスを見に行って道で知り合ったインド人に金の無心をされチャイを奢らされた。勿論、金は貸さなかったが・・・・心を開くとどんどんその隙間に入り込んでくる・・・インド旅行は毎日気が抜けないのである。

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やはりビーチが好きです

兎に角、海でのんびり過ごしたいと思って、トリバンドラムの近く旅行者の誰もが勧めてくれたコバナムビーチを目指すことにした。列車とバスを乗り継いでリゾートへ、ここのビーチはゴアよりも波は高かったが、綺麗でリゾートするぞ!と言う雰囲気にさせてくれた。ビーチにはたくさんの旅行者が戯れ思い思いにリゾートを楽しんでいるようだった。レストランに行けば自然に日本では非合法な嗜好品が回ってくる。

一番は海鮮が食べられることが嬉しかった。インドでは旅行者は同じ時期に同じようなルートを回るのでよく前にあった旅行者に合う。ひとりはデリーで同じ宿に泊まっていた日本人のボーイッシュなお姉さんだった。あとは密造酒を一緒に運んだあの太鼓のドイツ人だった。 ひとりの日本人とコバナムで知り合った。彼の会話なかである人物が気になった。その人の話をすると僕の中でイメージできる人物と一致したのだ。そしてその人物の名前を聞いてみると正に僕が知る人と合致したのだった。偶然と言うか、世間は狭いというか、結局同じ穴のムジナなのかと思った。

 

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不潔なブルースマン

 

ここでも意外と日本人旅行者は多かった。僕がギターを独りで弾いていた時に声を掛けてきた人が居た。神戸から来ていた人が居てネパールで足を腐らしたあのヨコカワと同じように足を倍に膨れさせていた。 彼はもう2週間ここから動けないで居るのだった。彼はギターを持って来ずにボトルネックだけ持ってきている横着ものだ。誰かに借りて弾けばいいと言っていた・・・・究極に退屈だったのであろう彼にギターを貸すと陶酔しマディ・ウォーターズが憑依したかのように弾き始めた。そして15分が過ぎ弾きながら近況を語りだした。「足のせいで2週間、宿に缶詰で風呂にも入ってないんや!ほんで、抗生剤を飲んでいるんやけどが、薬がきついせいででウンコがでない、あまり溜まっていたから指でほじくり出したんや!まいったよ!!」・・・・おい!その指で僕のギターを弾いているのか!!これが関西人の正直でデリカシーのないところだ!ちょっとその不潔な指で弾かんといてください!!」・・・・「石鹸で洗ったから・・・・大丈夫!!」・・・

インドに居ることはこんなことさえもどうでも良くなってくる・・・・まぁ良いか・・・・・・

 

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最南端へ

そして、カーニャクマリに向かった。クマリまでバスで4時間ぐらいだったか忘れたが、着いて宿にチェックインしてすぐに旅の友のギターのブリッジがまるごと外れた。こんな早くそしてこんな形で壊れるなんて・・・やはりインド製は粗悪であるが、そのときあのうんこの指で弾かれたからだと、しばらくあの神戸のブルースマンのせいにした。そしてお気に入りの海パンをコバナムに忘れてきていることに気がついた。考えた挙句、海パンを4時間かけて取りに行く方がいい、この先気の聞いた新しい海パンを手に入れることはインドでは無理だ!クマリとコバナム往復したとしても海パンのほうが高い!!バスを待っている間2人の子供がこっちをちらちらと見てきた、僕に対してスーパー関心があるようだ。距離を少しずつつめてきた・・・・・そしてハローも言わずに「what your name?」 この無礼者!!と思ったが,これがインドなんだ・・・僕はにっこり笑って自分の名前を告げると笑われるという予想通りのリアクションが帰ってきた。そして4時間かけて夕方に戻った。お気に入りの海パンはしっかり物干しのロープに掛かったままであった。帰りのバスはもう無かったので、ボーイッシュのねーちゃんの部屋に泊まらせてもらい次の朝壊れたギターが待つクマリの戻った。

 

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カーニャクマリの漁村で

 

カーニャクマリはインド最南端の猟師町で海にヒンズーの寺院がありインド人にとっての観光地で聖地でもある。しかし南インドは大航海時代の影響でキリスト教徒の数も少なくは無い。したがってここには教会でなどがあり少しインドと違った風景が見られる。たいして寺院を見ても時間を潰すだけの感覚になっていて何処の寺院を見ても退屈なだけなので、漁村を散策することにした。昼間は人が活動している気配が感じられずひたすら静まり帰っていた。港に上げられた船にもたれて海をボーっと眺めてたそがれているとインド人の癖に忍者のごとく僕の横に忍び寄ってきていていきなりそこそこのテンッションで声を掛けてきた。「Where are you from?」僕は思わず「わぁ!」と声を上げてしまった。びびらすんじゃねぇ爺!と数秒間、心の中で連続で唱えてから同じぐらいのテンッションでジャパニーとヒンズー語で答えた。それからその爺さんはインド語と英語で色々質問してきたが、あまり理解できない・・・不毛な会話が続いたが彼はどうやら僕を彼の家に招待したいらしい。悪人には見えなかったし、猟師の生活にを見てみたくなり彼の言葉に甘えることにした。

 

そんな申し出は・・・・・マジ??

 

家に入ると爺さんは飯を食わせてやると昼食を済ました僕に言ってきた。断るのは何か悪いような気がしたのでご馳走になることにした。見るからに貧祖な鰯のカレーと冷えたグレードの低いご飯だった。スパイスも少なく超が付くほど薄味で京都人もびっくりな味だった。つまり不味い、カレーはここでは特別旨いと感じたこともなかったし特別不味いと感じたことも無かったが、この振舞われた代物は今まで食べたこのとのない壮絶で想像を絶する不味さであった・・・・スパイスが少ない、味が薄い、その意味は収入が僅かだと物語っているのだった。月収を聴いてみるとその爺さんは2歳になる孫娘を抱きなが答えた。確かな金額は忘れてしまったは五千ほどだったと記憶している。そんな見るからに貧しいのに関わらず、僕のためにジュースを婆さんに買いに行かせて馳走してくれたのだった。旨そうに食べなければ気を悪くする・・・・オスカー級の笑顔で気を使いながら美味しそうにその不味いカレーを常温の生ぬるいジュースで流し込んだ。 爺さんはその孫娘と写真を撮ってくれ、そして後で送ってきてくれと言ってきた・・・・お安い御用だ!その頃、代わり映えのしないカテゴリー、つまり被写体に飽きてきたところだった。 写真を撮り終えて住所を聞いて書きとめているときに爺さんは「お前・・・・この娘と・・・結婚しろ!」と言うではないか!! まだ二歳なのに!!爺さんの眼差しは冗談のそれではなく、円陣を組んで監督の言うことを聴いている高校球児のキラキラとしたそれと同じだった。考えてみれば一つの可能性に掛けたのかもしれない。この漁村に居ても今以上に幸せは望めない、この外国の兄ちゃんがうんと言えばその可能性は広がるのではないかと真剣に思ったのであろう。がしかし、僕の倫理観と夫婦としての機能を果たすまで15年ぐらいは待たないといけない。 それまでは子供として養っていかなければならない。大人になって自分のタイプの人になる保障はない、子供のときは可愛かったが大人になって伸び悩む例は数々ある・・・・ そのあいだ他の女に靡く可能性を孕んでいる・・・・リスクはある・・・・と断りの返事を返す何秒かの間でそう思った。 カレーと無理をして買った希望の星であった生温いジュースをご馳走したのも関わらず、その希望は叶えられずにそのキラキラとした眼差しは見る見るうちにどんよりと曇って絶望にも似た悲しげな顔に変わっていった。焼き増しせずに送ってしまって知らないうちにネガが無くなってしまい記念の写真を残すことができなくて残念であるが、忘れることのできない思い出となったのだった。

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長期旅行 インド編 南インド コーチン

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そうだったのか!

州境だったのか検問所のような所で調べられたが、白タクであろうとも、ただ人を運んでいるのだから当然何事もなく通過できた・・・何の問題も無くやり過ごせた・・・・そして眠りに落ちって言った。

朝靄が立ち込める中、僕たちはある場所でインド人ドライバーに起された。何処かの民家の前だった・・・・そして一度降りろと頼まれた。民家の中から男が出てきてドライバーと僕らが座っていた後部座席を取り外して何か作業をしていた。なんだろうと覗くと木箱に入ったラベルの無い瓶がみえた。中身は酒だ!!つまり密造酒なのだ。 インドでは大っぴらに酒を売っては駄目なようだ。基本的には非合法に近いものらしい。どこかで作った密造酒を外人の僕らを乗せて白タクと見せかけて、ここまで密輸したのだろう。  タクシー代も入ってくる一石二鳥の商売だ!マンガロールに着いたのは約束の予定時間よりも4時間以上後だった。ドイツ人たちは約束と違うといってタクシー代を値切り始めた。僕は一応無事にマンガロールに来られたし、これから僅かな金で交渉するのは面倒だと思ったので始めに言われた金額を払ってコーチン行きの切符を買いに行った。

考えかた・・・・目線を変える

二等寝台の切符を買うことができたが、出発までまだ時間がある。インドは待つことも旅のうちだ!!その時間を上手く潰せないと辛いだけの旅になってしまう。インドに関して、余裕の無い旅行はインドのよさを知ることができないまま帰ることになる可能性をはらんでいる。そして強行で短期な旅行で残る印象は「最悪」の二文字が海馬に刻み込まれるのだ。 僕も始めの一ヶ月は毎日そう思っていった「インドは最悪だ!!」と・・・・しかし、理不尽だと思うことや、このルーズさを普通のことだと思って来られると日本で生きることの方が堅苦しいと思えくる。 長く滞在すればするほど気持ちは不思議なぐらいどんどん楽になって来る。だから、インドにハマってしまう人は多いのかもと感じた。 僕は自分がしている音楽の全く無いインドのような場所に来て、音楽をしたい気持ちを新たに呼び起こそうと思っていたが、逆にそんな気持ちはここでは失せて来る。 ここインドはカーストがあり理不尽なことがまかり通っている。乞食はカーストにも入れず路上で生活している。 しかし、そんな人たちでも家族を持っているのだ。そう思ったとき、人間の幸せは単純なそのサイクルにあるのかもと思った。この世に生れ落ちて成長し、子孫を残していく親から子へと、子から孫へと・・・・選択肢の多さや他人と比較するという基準が心を迷わせているのかも・・・・ただ、何も豊かと感じられるものがない状況下でも、幸せと感じられるものがあれば ”それはそれで良い’ なんて思ったりのしたのだ。野心、野望はつまらないものだと心の中が変わっていくのを感じていた。いずれにせよインドのみならず人生を楽しむ鍵は目線を変えてみるということなのかもしれないと答えを1つ導き出したような気がした。一方向しか見ていないことはいつも同じ方向の絵しか掛けないのと同じように視野を狭くして偏見を生み出し、そしてそれが本質だと言い張ってしまう。答えは1つではないのだろう、いくつも真理があるのだと思う。物事を見るとき100パーセント本質を見抜くことは不可能だろうが、目線を帰ることによってより本質に近づけると信じている。

グレードの高いベンツを乗っているからと言って金持ちと思っているのは大間違いだということもあるのだ。中には自分で高級車を洗車して、セルフで5000円分だけ給油して業務スーパーで買い物しているかも・・・・しかし、日本の社会で生きる限り、基準になる意識や考えを変えるのは難しいことだと思う。 大多数の人の意識がその基準にそぐわない人間に対して時として負け組みと決めてしまう。金があると勝ち組でないと負け組みの縮図が出来上がっているのだ・・・・マイノリティーは阻害されがちだ。

様々な人がいて、それぞれの考えがあると言うことは健全なことだと思う。しかし、他人の考えに対して物の本質を見極めもしないで、上っ面なことだけを評価するのはいかがものかと思う。高級外車に乗って、そこそこ良い家に住んで、毎日の生活費をきりつめてローンを35年払っていく人生を選ぶのがいい人生と思っているのであれば僕はそれを否定したりしないのだ。成功者や勝ち組と言う言葉も蔓延しているがその語り手の乏しい認識の上で判断しているのでありすべての人の共通認識ではない金があるのが成功者であると・・・

僕からしてみれば家族を持ち、子供を育てしあわせを感じて生きている人はもうそれは成功者と呼べるに値するのだ。

長期旅行 インド編 南インド

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隣人の行ったことが現実になった

 

これは警察のガサだ。踏み込まれるとヤバイ・・ドアを開けないわけには行かない・・・・中にいた日本人たちは慌てふためいている。現物を持っていたヤツたちは思い思いにその処理を試みている・・・・食べるやつや、自分いる半径40cmの間を行ったり来たりするやつ、窓の外にブツを捨てる奴も居た、こんな光景を高校に時に男子便所で見たことがある・・・・そして停学・・・しかし、この状況はそのレベルではない、その程度では済まされない、麻薬を使用所持なのだから!!仕方なくドアを開けると4,5人の私服警官が入ってきた。警察手帳らしきものを見せたがそれが本物かどうか分からないが、下手なことはできない心の中であの怖い映画ミッドナイトエクスプレスを思い出した。 一人の警官が窓の外にあったジョイントを発見した。「what is this?」 「i dont know」 警官たちは今からお前たちを連行する!!」と言った感じのことをあの強いインドなまりの英語で言われて緊張感が走った。心の中で一瞬、あの怖い映画ミッドナイトエクスプレスを思い出した。ヤバイ・・・・捕まる!!!捕まったて監獄に入れられたらもう終わりだ!!何十年もこんなインドのような場所で懲役を食らっては日本人として、いや人間としての尊厳を失ってしまう恐れがある。それだけは何としても食い止めねばならない!!!多分、そこにいた全員がそう思った。通常物が見つかった事態でわっぱをはめられて連行ということなのだが一向にわっぱを掛ける気配を感じられない。「take you to jail  ok?」 連呼するだけで他の警官も落ち着き無くウロチョロしているだけだ。 彼らの態度を見て目的は別にあると誰もが思った。 そして英語が堪能な一人が口火を切った。 「do you have another way not to go to the jail?…  Money??」 部屋にいた日本人たちは半分土下座しながらで「プリーズ」を連呼した。そして頭を下げながら口々に日本語をつぶやいている「このクソインド人」 「バカインド人」 反省している表情で上手く「プリーズやアイムソーリ」を入れながら罵倒している。 傍から見ると滑稽であったがここは正念場だ!!笑ってはいけない・・・・ 

警官の一人がそのオファーに対している一瞬考えているふりをした。そして、仕方なく合意したような態度で金額を提示してきた・・・英語の堪能なその日本人は「デスカント プリーズ」と同時に残りの日本人はまたもや反省している表情で「プリーズ」を入れながら罵倒する。結局提示額の半分まで値切ることができたのだ。一人頭日本円で700円ほどだったように記憶している。 警察官の仕事を全うしても一銭も入ってこない ここらの警官はこうやって小遣い稼ぎをしのぎとしているのだ。 そんな低額で監獄行きを阻止できるのであればスリルある面白い経験ができたとそのときは思ったが、これはたまたまラッキーで実際に捕まってしまったとしたら、と思うと怖い・・・・・軽率な行動は控えなければと肝に銘じたのだった。

 

 ゴアを去るって白タクで・・・・

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ゴアの予定滞在期間がきた・・・あのクリームパンと別れるのは辛い、後ろ髪を惹かれる思いで、面白エピソードができたゴアの浜辺の村を後にした。

南下してとりあえずコーチンまで行こうと鉄道を利用することにしたが、待てど、暮らせど予定の時刻になっても乗るはずの列車は来ないのだ・・・ギターを弾きながらのんびり待っているとインド人が集まってきた。ちょっとしたライブの始まりだ。インド人たちはあれやこれやとリクエストしてくる。 洋楽は分かるがインド音楽のリクエストはお答えできん!!と言う具合に時間を潰していたが、良く聴いてみると事故で何時列車は来るか分からないというではないか・・・・駅で野宿するのも嫌だしゴアに引き返すのも嫌だと迷っていると二人ずれの小さなタイコを持ったドイツ人が僕にマンガロールに行けば列車に乗れるそうだなのでタクシーで一緒に行かないかと申し出てきた。そして、すでにドライバーと交渉していると・・・・安く済ましたいので同乗するメンバーを募っていた。一人で長距離をタクシーで行くなら不安だが何人かの旅行者と一緒なら安心だ。おまけに185cmはあるデンマーク人のでかい女も同乗する。僕はOKと言ったがタクシーは正規のタクシーではなく所謂白タクであった。 インド人ドライバー独りと旅行者4人でインドの国産車アンバサダーに乗り込む・・・・5人はなかなかきついものがあったが、駅で野宿よりましだ。でかい女は前に乗り、日本にとっての大戦の同盟国はインドもそうなのだが三国同盟の2国の人間が後ろに陣取った。ドイツ兵は「インド人は信用!!」僕は「ごもっともだ!」と心の中でつぶやいた・・・そして彼は続けた・・・「もしドライバーが何かしたら俺が頭を押さえるからお前らはできるだけ殴れ」対インド人作戦を告げてきた。インドではインド人が信用できない為に、こうやって旅行者同士で共同戦線をはり、仲良くなっていくのだった。

 

長期旅行 インド編 ジャンキーの聖地 ゴア

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賃貸の部屋がある!

 

ゴアではゲストハウスに泊まらず日本人とS君と部屋を借りた。彼は偶然にもネパール宿が一緒だった人だ。彼は旅行中に知り合った日本人の女の子とネンゴロになり、カップルでその宿に泊まっていたが。彼女は先に帰国して彼は一人で旅行を続けていた。ネパールであったときは口数が少なく物静かで関西人の僕らを警戒していた人だった。 彼はいけ好かない友達にならないタイプで彼の多分もそう思っていたに違いない。  しかし、偶然や非現実的な場所での一人旅は人の心を一時的に変えて少し寛容にさせてくれのかもしれない。 彼と偶然違う場所で会ってそして会話を交わした。S君はゴアに長く滞在する予定だったのでゲストハウスよりも部屋を借りる方が安いので賃貸物件を探すことにしていて僕もそれに便乗させてもらった。部屋をシェアーすることになったのだ。彼の最大の目的はゴアでドラッグ漬け新年を迎えることだ。 そして彼曰く、ゴアのニューイヤーパティーにはドラッグ愛好家の外タレが来るかもしれないという。これは都市伝説のように言っていた。「今年はストーンズのミックジャガーみたいだ!」と・・・・・・彼の予定は2週間ぐらいで僕は5日から1週間の予定だ。少しの間だが共同生活が始まった。部屋は4棟長屋で隣はイギリス人の二人ずれ、一つ空き家で後はドイツか、北欧の何処かのカップルだった。大きさは8畳ぐらいだったように記憶している。トイレシャワーは無しで、シャワーは井戸まで行かなければならなかった。 トイレは家の横で、大の方はまん前の海で済ませる原始的水洗便所だった。ゴアの町まで買出しに行き、夜は自炊して外国の囚人のようなスープやような物を作ってパンと食していた。上手いクリームドーナッツを売っているレストランを見つけ、毎日のように行ってドーナッツを食いながらもう一つの嗜好品を楽しんだ。 

 

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レストランはパラダイス?

 

ゴアのレストランは警察に賄賂を渡しているので中は自由にクサなどを楽しめてLSDなども買えた。 持っていなくとも自然とチュラムが回ってくるので、やりたくなくてもいやおう無しにキマってしまうだった。しかし、この州ではその手のものは違法でレストランで以外でやると捕まる恐れがあると、隣のイギリスのあんちゃんたちが言っていた。そして部屋でも絶対にしてはいけないと・・・・彼らは長期でこの部屋を借りているらしい。歌は世界共通の友達になれる便利なツールだ。ギターを弾きながらレッドツエッペリンを一緒に歌っていたときに教えてくれた。「この部屋は警察のガサがあるので気をつけろ!前に借りていたやつも捕まったんだぜ!!」と・・・・「了解!!」僕は軽い気持ちでそれを聞き流したのが運のつきだった。

 

新年のパーティー

 

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大晦日の夜、パーティーに行く前にいつものドーナッツ屋の店で夕食を済ませた後に、隣のテーブルのドイツ人がでっかいチュラムを出して僕に勧めてくれた2吸いしただけで強力に来る、これは純粋のチョコレートではないとそのとき感じた・・・・・まともに立てないこれでは楽しみにしていたパーティーにいけない・・・・

暫く辛抱していたが、限界だ、Sくんに先に帰ると告げ、宿に帰った。良く覚えていないが真っ直ぐ歩けないから相当な時間をかけて帰ったに違いない。気がつくと部屋の中で仰向けに寝ていた。目を開けると天井がぐるぐる回っている。そして知らぬ間に寝てしまっていた。気がつくともう日が高く上がっていた。僕のニューイヤーのパーティーはどこかに行ってしまっていたのだった・・・・・ そして、この時僕には酒と同じくこういう類は体に合っていないかもしれないと思った。

 

 マリファナとフォークソング

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ある晩。浜で知り合った日本人がギターを聴きたいと言った。クサについては肯定派の自分なのだが、彼らはあくまでもギターを聴きたいというにはキメるためのオカズ的なアイテムと考えている。 そういう考えと一緒にされるのが嫌だったし、インドに来た目的はクサを吸うために来ている人たちと一食単にされるのも嫌だったのでマリファナ愛好家の日本人とツルむのも敬遠していた。 しかし、白人ではないのでストレートに面と向かってそんな事はいえない。気が進まなかったが、数時間ぐらい我慢できると思い部屋に招いた。乗り込んできた日本人はすべてガンジャ愛好家で五人、皆それぞれどこかで仕入れて所持している。タバコは毎日欲したが、ガンジャは毎日欲しい訳ではなかったので僕はネパール、インドと自分で買ったことが無く、現物の持ち歩くことも無かった。

部屋に入って、「とりあえず、一服しますか?!!」と言う具合にはじまった。そして、リクエストが始まった・・・・井上陽水、吉田拓郎・・・フォークソングではないか・・・?僕は多感な時期は洋楽に影響されて邦楽を否定し始めた頃でくt殆ど歌謡曲やフォークソングを聴かなかった。特にあの頃のフォークの歌詞は貧乏臭く、そして辛気臭い音楽と感じ、演歌同様嫌いなジャンルだった。ジャンキーであるならばリクエストはジミヘンドリックスやクリーム、サイケな音楽だろう!あまり詳しくないが、ピンクフロイトとかだろうと思った。 拓郎できめたとしても自分にとってはピントこない。お互い歯車がかみ合わないまま、少しダウン系に突入しそうだ。 そんなはっぱをキメてダラダラしていた時に ドアを強くたたく音が鳴った。 「Hello! Hello! Police!! Open the door!!」 警察が来てしまったのだった・・・・

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長期旅行 インド編 アジャンタ エローラ ボンベイ

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また一人の旅が始まる・・・

犬に噛まれたS氏はパキスタンをめざし、体調が戻った僕はギターを持ってアウランガバードへ鉄道でアジャンタを目指してた。勿論、時間通りには行かず、かなり遅れてアウランガバードに到着した。その日は遅かったので食事にもありつけなかったが、ユースホステルに泊まることができた。.朝起きると体調が又悪い、恐らく完全に治らないうちに出てきたので熱がぶり返したのだろう、丸2日寝込んでしまった。デリーのときは相部屋でS氏ともう一人日本人の女性がいたので心強かったが、ここは一人、心細いものである。薬も買いに行けず、少しの食べ物と水だけで凌いだのである。

 

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体調が戻ってアジャンタへ 

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バスに揺られること3時間、出発時間が遅かったのでアジャンタの閉門まであと数時間、割とあわてて見なければいけない。ここは高松塚古墳の壁画の元になったモチーフがあり仏教石窟寺院だ。来る前にラジオの番組で語り手が神秘にとんだ内容でアジャンタの話を語った、一生に1回は行かないといけない場所だとマインドコントロールされてしまっていた。 勇み足で中に入り石窟を見てまわり、そのモチーフを見つけてカメラを取って写真に収めたとたんに警備員に呼べ止められた。「ここでは写真を撮ってはいけない」と言われた。「大事になるのか?」と思いながら別室に連れて行かれた・・・別室には偉そうな館長のような人がいて「撮影禁止の看板を見ていなかったのか?!」と咎められた。僕は知らなかったと素直に謝ったが、館長は「撮ったフィルムを没収する!」・・・ 募集されると今まで撮った写真までパアだ。僕はそれは勘弁してくださいと頼み込んだ。

そのやり取りが続き、館長は「君の仕事は何だ!!?」と言ってきた。僕は「Musicianです。」発音が悪かったのか、「Oh! Masician」 「違う!!手品師じゃない!!音楽家だ!歌とギターをしています!!!」言い直した。館長は理解を示し、僕に「だったら歌って見せろ!」とリクエストをしてきた。・・・なぜ歌わないといけないのだと思ったが、素直に要求に応じてこの事態を乗り切ろうと思った。「じゃ歌います!!」インドのアジャンタの別室で歌う羽目のなった・・・・自分の源氏名の元になったデイブ・クラーク・ファイブのビコーズを歌い終えると館長は歌が気に入ったのか、写真のことはすでにどうでも良いようだった。「今夜、家に遊びに来なさい!ご飯も食べられるし、家族のみんなは音楽が好きでギターもあるしドラムセットもある!!!」と、写真のことは一切触れずに興味の対象は僕が家に来るかどうかに変わっていた。その申し出は嬉しかったのだが、体調は万全ではない、デリーで買ったギターも荷物もアラウンガバードのYHに置きっぱなしなので、気持ちは行きたかったが、丁重にお断りした。

アジャンタは期待しすぎたのか、ちょっとしたアクシデントもあったのか思ったほど感動はなかった。それよりも嫌だったインド人のフレンドリーな一面を見れたことのほうが印象的であったのだった。そしてまた3時間掛けてアラウンガバードまで・・・・地平線に沈む夕日を見ながら・・・・・

そして翌日、エローラへ殆ど情報をいれずにエローラを訪れた。専門家ではない僕が言うのも何なんだが。その芸術性のクオリティーの高さに感動を覚えた。奥行きのある、高低差のある。今で言う3D的な感覚に陥り、何か心がそれによって癒されている感覚にも陥った。アジャンタに行った時は感じなかったが、アジャンタの石窟やエローラにおいても宗教の力は人の心を一途にさせ、一心不乱にさせる。日本にも仏教アートと呼ばれるものも多くあるが信心の為、そして修行をする為、一生を掛けてこのような遺跡を構築させる・・・・感慨深いものがあった。 

 

 

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ボンベイへ

昔のインドの町の名前や通りの名前、たとえばボンベイは今で言うムンバイ、カルカッタはコルカタなど英語の名前が殆どだった。ボンベイはインドでは2番目に大きい町らしい。 町はイギリス統治下の名残が強く、建物はヨーロッパ調で二階建てバスも走っている。 物価は他の地域よりも2倍近く高かったように記憶している。 食べ物は北インドよりもマイルドな感じで北でターリーと呼ばれる定食はここではボンベイミールスと言い方に変わるのだ。1、2種類カレーにヨーグルト、ご飯とローティで基本的に内容は同じであるように感じていた。ボンベイではサルベーションアーミーに泊まることにした謂わばYMCAのような感じのところだ。ドミトリーで朝飯はついていたがパンとバナナだけであった。この朝飯と物価の高さで3日持たないで違う場所に移動したので、実際2階建てのバスにも乗らなかった。そして、思いもよらないトラブルに遭うことになったジャンキーの聖地で新年を迎えようとゴアに向かったのだった.

 

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