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ミュージシャンとして5

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新しい仕事

シンセの発達と共に自宅録音をする機材も画期的になっいった。

そのころの主流は、今のようなPCと呼ばれるコンピューターで音楽を作るのではなく、シーケンサーと言う音楽製作専用の小型コンピューターであった。

そのシーケンサーを使ってそのころから作曲を精力的に行い、曲作りやアレンジを含め、機材操作のスキルも上げていった。

そんな折、あの憧れだったギタリストW氏にある仕事を紹介された。

その仕事は多目的音楽を作る仕事だった。その名のとおり、多種多様な音楽CDを製作して、それを製作会社やテレビ局、ラジオ局などにリースするという仕事に携わった。

(重要)クライアントは一枚のCDを視聴し、意向に合えば使用するというもので、製作において時間と金を節約できる便利なライブラリーである。

W氏は曲作りこそしていなかったがプレイヤーとして録音の仕事をしていた。

作られてきた曲にギターパートを入れていく、つまりスタジオワークである。

このW氏からやってみないかと言われた仕事は、自分自身の曲作りに生かせ、ライブラリー作成のスキルを向上させてくれると思い、参加させてもらった。

割が良いか?

ギターの録音は格段と安かったと記憶している。1パート3000円ぐらいだった・・・。作られた10曲ほどの音楽に1パートか2パート録音していく。

それでも3万そこそこ、曲作りより効率の良い仕事だ。

作曲はアレンジを含め、ドラム、ベース、ピアノ メロデイ、少なくとも4パートは打ち込まなければならない。

大抵はストリングスやクリスタルトーン系も打ち込むので6パートぐらいはアレンジしなければならない。それにギターリストのために譜面も用意しなければならなかった。

本気だす!!!???

曲はテレビ用の長いものとラジオ用の短いものと2バージョーンあり、アルバム作りにはよってはコンセプトもあった。

コンセプトがある時は、そのコンセプトにしたがって作らなければならなかったが、基本的には自由につくれた。

曲のタイトルも決めなければいけなかったが、僕は具体的な名詞より、形容詞を使った抽象的な曲名の方が選曲しやすいし良いと思った。

ボツになった曲名「あたたかい」・・・・曲名らしくないといわれ却下された。

ギャランティーは一曲売りで一万円だ。著作権から演奏権から全部売ってしまい買い手(その製作会社)に譲渡するのであった。ギャラの配給は締め日から約2ヵ月後、それも小切手で渡された。

今思えばなかなか危なっかしい、胡散臭い会社だった。

曲作りは100パーセント出し切るようなことはせず、自分の色を付けつつも自分的に60から70パーセントの出来の曲を書く。

良い曲になってしまったときは、わざとおいしい部分を差し替えたりしてそのクオリティを自分の曲のためにキープした。しかし、そういう曲を作るのもなかなか至難の業だ。

意図的に辻褄が合わない音楽をつくることは違和感があり気持ちが悪いので、ついついまともな曲にしてしまう。

本気!???

僕が書いた曲以外はどの曲も、僕が感じている良い!と言うセンスを感じることは無かった。作曲者はどんな意図で作っていたのか最初はわからなかった。

狙いのか?それとも100パーなのか・・・・・・?

何回か仕事を一緒にするうちにそれは明らかになった。

他の作曲者「聞いてください!!いいのができました!!!」

僕は、「ええっ!!なんじゃそれ!!心の中で20回ほど唱え!」と言えるはずもなく、「なるほどね・・・」と言葉にした。人間的に未熟だった僕にはそれ以外のベストな言葉をさがす寛大さは無かった。

しかし、その後あることに気づいたのだ・・・・つまりベストをつくしていたんだった。

良いものを作ろうとする姿勢はリスペクトに値するし、そのことにおいて否定などはしないが、そのアホみたいな音楽は断固として否定したい。しかしながら需要に合えばそれも良し!だ!!

世の中には多種多様の嗜好が存在する。野球でたとえるならホームランバッターだけでは成立しないのと同じ!チーズケーキでたとえるなら・・・・・・たとえられへんって!!

今は創造を絶するほど凄いが、コンピューターで作曲すると、コード展開やボイッシングなどのテンプレートがあり、音楽の理論や知識が無くても作曲できるようになっている。つまり、シーケンサーを使うことは、時代の走りであった。

だから、シーケンサーで作られた曲を聴くと「なに?これ?」とよく思った。

誰だパクッたのは!?

テレビを見ていると何処かで聞いた曲が流れた。あれ?、この曲のアプローチは僕のに似ている。

盗作されているかも・・・?と思いきや、それは以前に僕が書いた曲であることに後から気づかされることがよくあった。僕が作った曲はどこでどんな風に使われているかほとんど知らされなかった。

お昼のあるドラマの挿入曲は、ほぼ僕の曲が使われていることがあった。

このドラマで使われた曲は、僕が最初にディレクターにプロモートしたときに書いた曲で、そこそこ出来の良い作品であった。

船場商人???

スタジオは南森町にあり、駐禁の取り締まりが来ない場所を見つけるのが大変だった。

南森町のスタジオにはエンジニアが二人常勤しており、そのひとりのアシスタントエンジニアがなかなかの大阪弁使いであった。

年のころは20代後半ぐらいで、顔だちもさわやか!!しかし、一度話し始めるとタイムスリップしたように、船場言葉を惜しみなく発した

若い世代には船場の商人の言葉はすでに死後であった。

僕がどうですか?というと・・・「そうでんなぁ、ええんちゃいまっかぁ」・・・。

ギターのW氏がミストーンをして・・・「もう一度お願いします」と言ったら、アシスタントは・・・「あきまへんか?ほな、4小節目のあたまから行きまっせ!」とかなんとか・・・。

僕らの年代であそこまでの船場言葉の使い手を今まで見たことが無かった。

彼はでんがな、まんがな、船場言葉を継承していく数少ない貴重な絶滅危惧種に認定する価値のある人物だと今でも感じている。

 

話は戻るが、データを作って来て、スタジオで録音して、マニュピレート的なこともして1曲1万円おまけにギャラは2ヵ月後、あまり割りのいい仕事ではなかったし、つまらない曲を書くことの葛藤でフェードアウトさせてもらった。