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ミュージシャンとして4

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月に25日勤務、19万5千円!

大震災前のこと、神戸のライブハウスでの専属バンドをすることになった。

松山千春フリークのシンガーソングライターで一緒だったFちゃんの誘いだった。

以外であった。

あの時、失態をしでかしたにもかかわらず、仕事をくれるなんて・・・。

たぶん、これといって良いメンバー候補がいなかったのだろう・・・。

本当は補欠扱いだったんだろう・・・。

実際、その神戸のライブハウスのオーデションに行ったにもかかわらず、立ち上げのメンバーから外されていた。店がオープンしてから半年以上が過ぎていた。

僕だったら経験もあまりないし安く使える、おまけに歌とベースもできる。

25日勤務で1日5ステージ!1日1万円を切る・・・。

月給としては、19万5千円の手取りであった。

それでも一般的に同世代のサラリーマンよりも収入は多かったんだが、専属バンドのギャラとしてはそんなに良くなかったに違いない。

それもそのはず、店とバンドとの間にイベント屋、つまり事務所が噛んでいたのでピンはねされていたのである。

1回休むと一万円のペナルティが給料から天引きされるから、滅多に休めない。

休む時は自分でトラ(エキストラ)を頼まなければならない、そのギャラを天引きされるシステムだ。

Fちゃんが休む時はレギュラーの僕に頼むから、トラ代払わなくてもOKだ。中々の知能犯だ!!

これがバンマスの特権なのか!?

先に弾かれた!!

その特権なのか、こんなことがあった

その日はローンをして16万で買ったバリーアーツのテレキャスを始めてステージでプレイしようと思っていたが、Fちゃんが遅れると連絡が入り彼が来るまで、急遽、僕がベースを仕方なく弾くことになった。

ワンステージの何曲かが終わり、Fちゃんが来た。

驚いたことに、ベースを変わるのかと思いきや、人前で鳴らしたことの無い、僕のその新しいテレキャスを取り、大音量で悪びれも無く、弾きは始めた・・・。

なんでベースを弾ないんだ!!

そうFは半分遊び気分でピカピカのギターを弾いているんだ。

「あの野郎!!!まだ僕もプレイしたこと無いのに・・・。」

彼はその真新しいギターを歪んだハードロックサウンドでダイアナなど、残りの曲を全部弾き切った。

ワンステが終わり、彼はなんか良くないとか、加減がどうのこうのとか、まるでそのギターのクオリティが悪いかのように仰ったのだ!

「この野郎!遅れたことに対して誤りもせず、おまけに僕の処女ギターを弾き、エクスキューズするのか?!!」と思っても、強くは言えず歯を食いしばる思いだった。

いつも音のことでも駄目だしするが、ここの箱(ホール)ではアンプチューニングはあんたが思うほど簡単ではないのだ!!客が入るともっと難しいんだぞ!!と言いたかった。

8ビートの確立はまだ・・・・

その仕事を通じてミュージシャンとしての“いろは“や音楽理論も教えてもらった。

50年代の音楽はまだ8ビートが確立されていなかったために3連系の曲、つまりハネている曲が多かった。

ジョニーBグッドなんかもよく効くとチャクのギターは8ビートなのに、ドラムは少しハネている、ノリは4ビートなのだ。

当時はジャズ畑の人がプレイをするのだから、どうしてもリズムのノリ方がハネてしまったのだろう。

そんな訳で、3連形の曲が兎に角多い。

しかも、ロカビリーなんかはテンポがめちゃくちゃ速い!

しかし、うまくノレないから初歩的なリズムを取る練習をした。

メトロノームのクリック音を2拍4拍に感じて、8ビートやシャフルのリフやソロの練習などをしたが、すぐにはリズム感なんて養えない。上手く弾けない日々が続いた。

ミスは癖のようになる

ミスは本来プロとしてできないことだが、あの緊張感がミスを誘った。

誰のせいでもない自分の弱さの現われだったのは分かっていた・・・。が、クビにもなりたくなかった。

というのも実家の商売が駄目になった。

親父が判をついた保証人が飛んで、夜逃げ同然で新しいアパートに越していた。

その後に、母は保険の外交、親父は無職、妹はまだ高校生だったから給料の半分は家に入れていたから、クビにはなりたくなっかたのだ。

よくバンマスに呼び出されて、駄目だし!呼ばれるたびにクビ宣告に怯えた。

良くないプレイだけではなかった。気持ちが向上すれば必然と良いパーフォーマンスは見せられた。

そのときは毎回、そのテンションに持っていく技術は伴っていなかった。

つまりプロとしてのスキルがなかった。やはり練習量も足らなかった。

顔から火が出た!!

色んな仕事をこなしているメンバーだったし、下手なところは見せられないと思ったら、また緊張し、今では信じられないぐらいのミスをした。

Go away little girl という曲はギター始まりで、特別難しい曲でもないしテンポは普通だ。しかし、ひとつのミスが信じられないミスに繋がった。

最初のミスでFちゃんをチロリ・・・。

Fちゃんが横目で睨む!!

そこからはもう何を弾いているのか記憶が飛んでしまったかのように、その曲はもはや原型を留めていなかった。あそこまで行くと、もうコメディの領域である。

あの間違えで笑いをこらえるには難しかっただろう。あの暴君Fちゃんも吹き出してしまっている。ズッコケてギャグに持っていくような余裕無く、唯、パニクって強張った顔になっていた。

失敗できないと思ったらミスしてしまう。分かっていながら、その気持ちを打破することはまだできなかった。

ステージの数をこなしてくれば慣れてくるのは当然で、それなりに弾けてくるのだが、もうひとつ上の段階で弾けていないのは自分自身も分かっていた。

ミスター50‘s

そこのバンドのメインボーカルはエルビスフリークでオールディズ全般も詳しかった。

50‘sや60‘sの白人の音楽はじめ、黒人の音楽も詳しかったし、そのバックグラウンドも良く勉強していた。彼は勿論、人気もありパフォーマーとしてのオーラは凄かった。しかし、本来の音楽のセンスは感じられなかった・・・。

上がり症でミスの多い僕が言うのはなんだが・・・・彼のノリは日本的だった。

しかし、彼は50sをこよなく愛していた。髪型は正式なリーゼントヘアーだった。リーゼントヘアーと言っても今の人はピンと来ないと思う・・・・

多くの人たちはリーゼントヘアーに対して誤解している。特にヤンキーといわれる人たちは!!僕らの若い時代に流行った髪形であったんだが、よく暴走族がその髪型をそう呼び、好んでスタイリングをしていたが、あれは誤りである。

サイドをぴたっときめて、前髪をあげて、クルクルで剃り込みいれて、ではないのだ。

肝心なのはサイドの髪をバックにして其の髪を後ろでクロスさせてロンドンのリーゼント通りのようにスタイリングするのだ。それがリーゼントの由来である。

兎に角、彼はファッションも何もかもアメリカンで拘っていた。

僕は中学の時からオールディズは映画アメリカングラフティを見て聞いていたので嫌いではなかったが、時代は80年、シンセのクオリティーも向上し、音楽が画期的変貌を遂げていた。

やはり、そちらの方に重きを置いていた。特にアメリカウエストコーストの音楽に憧れていた。

ファンは有難い

そんな、僕でもファンが付いていた。

見た目と違って美声の持ち主なのだ。

実際には音域は広くないし、高い音も地声でGぐらいだ。が、声の響きが高く聞こえるような声と自分では認識している。

ファン・・・(友達のようなものだった)。

彼らはファンクラブと称して実際は半分からかっていた。半分は応援だった・・・?

本当はお目当てのシンガーがいたのだが、彼らはパウチした僕の実寸代の顔写真を胸にぶら下げ、ステージ前でツイストなどを踊りながら聞いていた。

しかし、そういう行為は緊張を緩和させて、良いプレイに繋がせてくれる。気持ちが一番と気づかせてくれた。ファンの応援があり、そこからは上がらなくなる。

自分自身で気持ちを高めて行くスキルも少しずつ養われていった。 

休憩中、よくお客さんに呼び止められて手紙を渡された・・・。

キター!!と思いきや「これミスター50sに渡してください」・・・とか、「違うボーカルに渡してください」とメッセンジャーをさせられたが、レアーなお客さんに 「ファンです、頑張ってください」と言われる度に、自分自身の自信にも繋がっていった。

こんな僕でも・・・ファンがいる・・・・

ありがとう!応援してくれたすべての人!!