ミュージシャンとして
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ベース奏者からギター奏者に
東京から大阪に戻ってきて、色んな音楽仲間と出会った。
音楽を仕事の糧としている人たちに出会えたことで、ミュージシャンへの道が開けて行った。音楽の仕事と言えども、その形態は様々だ。
- ナイトクラブで専属のバンド・・・・つまりハコバン
- タレントや歌手のバンド・・・・バックバンド
- レコーディングの演奏・・・・スタジオミュージシャン
他にも、音楽制作なども仕事がある。音楽を教える先生もそうだ・・・。
本職の仕事とは言えなかったが、自分らしく不真面目に、そして適当にバイトをしながら、音楽関連の活動も始めた。そんな中、自分のオリジナルバンドのキーボードプレイヤーからの紹介で、Mちゃんと言う歌手がいるバンドでギターを弾くことになった。
高校生の時はポールになりたかったので、歌とベース担当だったが、オリジナルのバンドでは歌とギター担当だった。
ベーシストからギターリストに転向した理由はチョッパー(フラップ)ができなかったから・・・、と言うよりは凄く上手いヤツがいたからだった。
時代はチョッパー全盛期!!ディスコでファンキーな音楽が流行り、フュージョンなんかも流行ってた。
歌を歌いながらチョッパーをするのはラリー・グラハムぐらいで至難の業だ!
歌で目立って、それでいてギターソロでも目立てるならギターリストの方がいい。
ギターは和音だって弾けるし、弦だって安いし、弾き語りも出来る。
ベースの弾き語りだと芸人の“はなわ“のような異様なスタイルになってしまう・・・。
なんて言い訳を探しながらベース担当からギター担当に転向したのだった。
ギャランティーの流れ
ギターリストとして仕事をするのは、Mちゃんのバンドが初めてだった。
大阪では大手の芸能プロダクションY興業とS芸能があるが、MちゃんはSの方と事務所契約をしていた。ただし契約関係はあったものの、毎月の給料は事務所から支給されていなかった。
しかし彼、Mちゃんの本職は、飲み屋(ショーパブ)でパフォーマーのような、ホストのようなことをしていた。
Mちゃんのバンドに掛かる経費は事務所がすべて持っていたようだが、僕らバンドマンのリハーサルのギャラは無し。はっきり覚えてないが、ライブ当日にもらえたのが、1万円ぐらいだったかな・・・?
Mちゃんは給料を貰わない契約でも所属タレントとしてバンドする利点があった。
- バンド活動でファンがつく・・・
- ファンはMちゃん目当てに彼のショーパブ店に行く・・・
- お金をそこで落としていく・・・
つまり金になる!Mちゃんの利益になるのである。
そんなデビューもしていないタレントだが、バナナホールはいつも立ち見が出るくらい満席だった。
ちなみに、ライブの売り上げは勿論事務所が持っていくのである。
ファンはありがたい
ファンと言うものはすべて好意的に見てくれる。
MCを回された時、意外なところで 客は笑い、ウケる。何を言ってもウケる。つまらない事でも大ウケ...。
当然ながら、Mちゃんのような存在になると、ルックスありきのお笑い芸人のように勘違いするのである。
自分が笑いの天才だ!!なんて・・・。
暖かいまなざしの中で演奏できることは、たいしたことのないプレイヤー(僕のこと)にとって心地よい・・・。
Mちゃんのブレーンを目指す
音楽的にはロックだが、ボーカルのMちゃんは果てしなく演歌の乗りに近いものがあった。それほど男前では無いと認識していたが・・・。
彼曰く、交渉した女性数千人にもうすぐ手が届く!千人切り!
モテなかったあの時の自分にとってその数は想像を絶したのだった。
GDPで言うなら彼は日本で、僕はミャンマーくらいの差があった。
彼はホスト的なジゴロであった。うらやましい限りであった・・・。
そこで、このバンドでMちゃんのブレーンとして、地道に女性経験を積み上げて人間を成長させようと思った。
つまり、零れ落ちた甘い汁を吸おうと企てたわけなんだが、しばらくしてその成人男性としての健全な願いは神様にも仏様にも届かなかった・・・。
早すぎるバンドの解散
バンドのメンバーは素人同然、勿論別に職を持っていた。僕のようなバイトしてるようなやつ、家業の手伝いをしているやつだとか。
しかし、殆どがこのバンドでデビューを目指していたが、嗜好性の違い、バンドマンに対して事務所の対応の不満やなんだかんだで1年も経たないうちに解散した。
結局、おこぼれを頂戴することも無く終焉を迎えてしまった。
音楽的にはそんなに好きじゃなかったが自由にアレンジでき、好きなようにプレイし、気楽に何でもできて楽しかったんだが。残念だった・・・。
おこぼれ。
棚からボタ餅を期待したが、簡単にそれを手にすることは簡単なことではない!むしろ、難しい!!!
人生の厳しさを思い知らされたのだった。